言論と数学

4年になり、研究室に配属された。

研究室は第二志望の水野研究室になり、理論から応用まで最適化の研究を行う。

 

輪読ゼミでは経営工学の数理という本を、読み進めている。

 

経営工学の数理〈1〉 (科学のことばとしての数学)

経営工学の数理〈1〉 (科学のことばとしての数学)

 

 これが呆れるくらい厳密なゼミで、例えば先日のゼミでは

"2次元ユークリッド空間(距離が√(x-a)^2+(y-b)^2で定義される距離空間)における内点と、距離がabs(x-a)+abs(y-b)で定義される距離空間の内点が一致することを証明せよ"

という例題があった(この時点でほとんどの人は意味不明だろう)。

発表者は証明途中に連続というワードを発して大炎上した。

 また別の日では無理数の定義(有理数の切断を用いる方法)で大炎上した。

 

 本題はここからだ。

おととい、実家に帰った。ぼくが現在暮らしている家は本をほとんど置かず、また目を通すことすらしない。

しかし実家はすることがなく暇である。買いためておいた本を読むくらいしか暇つぶしがない。

 

それで久しぶりに三島由紀夫の若きサムライのためにというエッセイを読んだ。

 

若きサムライのために (文春文庫)

若きサムライのために (文春文庫)

 

 

これが結構面白くて、男女の性差、外見、日本人の特徴などについて"なるほど"と思うような主張がある。(文学の章については理解できなかったが)

 

しかし厳密にいうと、日本人という定義は曖昧である。日本で生まれ、国籍を持っていたら日本人なのか?自分のように生まれがアメリカで二重国籍保持者はどうなのか、はたまた在日朝鮮人の方々はどうなのか。

 

性別も同様である。男の身体に生まれて男に惹かれる人はどうなのか、女の身体に生まれて、男性としての意識を持つ人はどうか。

定義が曖昧で、これは指導教員に言わせれば"議論などできない"状態である。

 

 

これらの定義は、生物学的なものに由来する。というわけで、真剣に勉強するなら生物学(とくに神経科学)を勉強したいと思った。